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葉華間美瑠子
明治7年(1874)佐賀の乱で敗れた司法卿江藤新平(1834〜1874)は、大久保利通の思惑に斬罪処刑されたが、その執行直前に、辞世の如く三度叫んだのが次の言だと云われる。
「唯、皇天皇土の我が心を知るあるのみ」
多分に、「身は朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」(吉田松陰)にも似た心情を、見事に訴えた言葉であると共に、無念なる
断罪に処せられた江藤新平の、維新政府に問う悔しい想いの
何ものでもない。
この江藤の言葉出典は、その死より15年前の[安政の大獄]で獄死した、梅田雲濱源次郎の七言絶句漢詩(鳩居堂蔵)に典拠していると言っていい。
妻臥病床兒叫飢
挺身直欲當戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知
妻は病床に伏し、子は飢えに叫ぶ(泣く)、身を挺して戎夷を払わんと欲す、今朝の死別と生別、ただ皇天后土の知る有り
雲濱のこの漢詩は、自分が国事に奔走することを理由に、妻や子供が困窮するのを正当化、或いは美化するとの評もあるが、幕末の若者には好んで吟じられ、今日伝わる。
確かに、梅田雲濱は商才があったのだろう、長州の物産と上方との交易を考えた。
いわば、龍馬の海援隊のような業で、大阪や大和周縁の豪農・商家にネットワークを持ち、長州の物産を京上方へ、逆に上方の呉服、小間物、薬種、そして十津川等の材木を長州へ送っている。
従って、金には恐らくは困ってはいなかったに違いない。
「妻が病床に伏し、子が飢えに叫ぶ(泣く)」というのは、
間違いなく詩のために創作された情景である可能性が高く、我々にはこうした家族の労苦をも超えた行動力がある、と訴えたかった強い決意の心情が汲み取れなくもない。
2015/12/20 Sun 13:45 [No.218]
京都歴史研究会・代表
そんな事はなく、葉山観音に暮らした頃は、貧乏だったのではないでしょうか?
雲濱妻の信子さんが、お金が無くて、着物を質屋に入れて、長襦袢一枚の姿で、琴を奏でる話を…
以前、この掲示板で読みましたしね〜
2015/12/20 Sun 13:52 [No.219]
木曽 武
梅田雲濱源次郎ではなく。
雲濱梅田源次郎です。
雲濱は、名ではなく、号ですから、大概は名前の上に冠します。
2015/12/28 Mon 21:47 [No.224]
緋牡丹お雪 mail
そう言えばそうですよね。
松陰吉田寅次郎っていいますねえ。
吉田寅次郎松陰とは言いません。
さすが、京歴研の大目付さんです。
2015/12/29 Tue 14:39 [No.226]