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京都歴史研究会代表
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★京都市北区大徳寺の周辺・・
紫野(むらさきの)や北西の紫竹(しちく)は、
源義朝の別邸があって、常盤御前
が住んでいたという伝承により、源義経や母
常盤御前ゆかりの史跡が多い
。
船岡山の東麓(北大路通から三筋目)西に、建勲北中通り、
北区紫野下築山町に・・・
『常槃井(ときわい)』がある
常槃井は、『常盤化粧井』とも呼ばれ、常盤御前が化粧に用いた井戸と云われている。
現在、井戸は涸れているが、
「常槃井」と記した自然石が
背後に建ち、貼り紙も最近はられた。何故か…常盤の漢字が違っている?
しかしこれは、私が調べた
江戸時代の本雍州府志によると…
常盤御前の[常盤]ではなく、
鎌倉時代前期の公卿で西園寺公経の息子/西園寺 實氏(さいおんじ さねうじ)の…
通称/常盤井相國の事である事が分かった。
(常盤井宮(ときわいのみや)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した宮家。)
だが、世間や観光本、ネット上も全て、常盤御前の井戸と伝わっている
(西洞院一条の[常盤井辻子]も常盤井相國の邸宅跡
)
さて、本題に入ろう
その「常槃井」の横から民家奥へ、細い路地を入っていくと、瓦礫が積み上げられた丸い塚がある。
常盤御前の着物が掛けられたという伝承から
『衣掛塚』『鏡塚』と呼ばれているこの伝承も、最近の後付けである
★数多くの史跡案内の衣掛塚ブログを見たが、
殆どが、[ころもかけづか]と呼んでいる
それは誤りで実際は、
[きぬかけづか]と読む。
江戸時代の地誌が、『絹懸塚』と記載されていたからである
(山州名跡志/巻之七[新修京都叢書]15、P.206、臨川書店、1994年二冊)
2015/11/13 Fri 08:10 [No.195]
京都歴史研究会代表
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さて現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」[正徳□年 利栄信女 三月十五日]と刻まれた石碑(墓)や、五輪塔の残欠石が置かれている。
江戸時代の文化年間(1804〜1817)の天皇陵調査では、
この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、
『文化山陵図』にも、この塚は描かれていて、
当時、塚は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、更に塚上には、大きな樹木があったことが分かる。
その後、天皇陵調査では・・・、衣掛(懸)塚は候補にも挙がらず、陵墓参考地にも成らず、
見離されている。
[聖域]扱いされても良い塚であったし、当時の貴重な遺構の可能性もあるが、
現在は、民家裏の瓦礫が積み上げられ、荒れ果てた場所なので
民家が立ち退きや、新たな建物が建てられるならば、
いつ破壊されてもおかしくない残念な塚なのである
私が衣掛(懸)塚に行ったのは、 2009年と2013年だったが、一昨日2015年11月11日、久し振りに衣掛(懸)塚を確認しに行って来た
一段と無残になり、神木の注連縄は無くなり、石碑は倒れていた
開発破壊だけは免れていたの
だが・・・
救いは、塚を囲む4〜5軒の民家の一人の女性が、掃き掃除をしていた事。
但し、女性にお尋ねしたところ、この塚を御守りしている人は誰一人いないと云う。
★参考文献新修京都叢書第三巻/黒川道祐著/(株)光彩社
図説天皇陵/別冊歴史読本52 2003年7月12日発行
(株)新人物往来社
2015/11/13 Fri 08:15 [No.196]