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京都歴史研究会・代表
寛文2年(1662)、歴代藩主を祀る『祠堂』(家廟)を水戸城内に建てて、儒式祭祀を始めた。
光圀は寛文6年(1666)家礼に基づく喪祭儀礼を解説した『喪祭儀略』を和文で撰述させ、藩士らの墳墓を坂戸と常磐に授け、自葬儀祭を勧めた
これは光圀が権力者だから出来たことかも知れない
そして喪祭儀略は、写本として流通、改定増補を経て、水戸藩では近世を通じて儒教儀礼が行われ続けた
徳川斉昭(1800〜1860)は喪祭儀略を基に『喪祭式』を編纂、明治になって
斉昭の子、第11代(最後)の藩主:昭武(1853〜1910)によって出版された。
権威ある儒教喪祭儀礼マニュアル書が成立し、儀礼も執り行われてきたが、新しい時代の到来により終焉を迎えている
。
但し、神道式の葬儀『喪祭式』として、儒教の喪祭儀式が取り入れられ変化して、僅かに残り現在に至っている。
2016/01/30 Sat 22:26 [No.241]
京都歴史研究会・代表
◆1月23日(土)15:00〜17:30
京都大学人文科学研究所
本館1Fセミナー室1にて
◇近世後期における水戸藩の儒教儀礼―[喪祭儀略]と[喪祭式]を中心に―
◇報告者:田 世民
(淡江大学副教授、京都大学人文科学研究所招聘准教授)
の講演会を聴講してきた!
中国や朝鮮でも、時代につれて仏教式の葬祭儀礼が普及し、
儒家知識人たちはそれに対抗するべく儒家伝統の喪祭礼の再興に務めた。
近世日本の場合、江戸幕府は寺檀制度を実施し、火葬を含めた仏教式の葬送儀式を、それぞれの菩提寺により仕切るよう制度化させた
。
その制度の下で、儒家の知識人たちの中で困難が起きた!。
「孝」を重んじる儒者にとっては、親の遺体を火葬にすることなど、全く許しがたかった。
よって、儒家知識人たちが朱子(1130〜1200)『家礼』(冠婚葬祭儀礼のマニュアル書)を忠実に受け止め、これを制約された時代の状況下で生かし、その方法を工夫しようと実践していった。
崎門派の浅見絅斎(あさみけいさい)は、自ら『家礼』の校訂出版や講義を行い、原則的立場を強調した。
火葬は論外であり、また異姓養子の禁止をも厳格に要求した。
(絅斎自身には実子がなかったが、敢えて学問の信念を貫き養子を取らなかった⇒この厳しさは、崎門派に共通する特徴である。)
水戸藩の二代藩主:徳川光圀(1628〜1700)は、藩主として自ら儒教的礼制を定め、藩を上げて儒教喪祭儀礼を実施した。
万治元年(1658)年、正室:泰姫の葬儀を儒礼で行った。
寛文元年(1661)、父親:頼房の葬儀も儒礼で行い、常陸久慈郡(現/茨城県常陸太田市)の瑞龍山に儒式の墓所を造営した。
その儒葬前後の様子は『慎終日録 威公』として記録
され、後の葬儀の参考となった。
2016/01/30 Sat 22:24 [No.240]
京都歴史研究会・代表
◆12月26日(土)予定時間お知らせします。。
13:00開場受付(記帳)・スライド準備ほか
13:10開会〜ビデオ30分(新日本紀行-太秦映画村1974)
13:40宮崎さん講演
15:00休憩
15:10ビデオ9分(今日は何の日-龍馬暗殺1989)
15:20杉さんぼく講演
16:10質疑応答
16:30閉会〜お知らせ案内〜カンパ本配付
17:00片付け後、鍵返却
2015/12/20 Sun 14:02 [No.221]
京都歴史研究会・代表
例年の風物詩だった
忠臣蔵の話題が、今年2015年はあまり聴いたり観たりしませんでした
ニュース映像で義士祭りを少し観ただけでしたね
年末のクリスマスムードも
飾り付けやイルミネーションも小規模になっています。
2015/12/20 Sun 13:58 [No.220]
京都歴史研究会・代表
そんな事はなく、葉山観音に暮らした頃は、貧乏だったのではないでしょうか?
雲濱妻の信子さんが、お金が無くて、着物を質屋に入れて、長襦袢一枚の姿で、琴を奏でる話を…
以前、この掲示板で読みましたしね〜
2015/12/20 Sun 13:52 [No.219]
京都歴史研究会・代表
12月歴史講演会のご案内
◆日時:平成27年12月26日(土)
13時〜16時30分
◆会場:河原町五条下ル
ひとまち交流館 京都 2階第1会議室
◆入場無料、予約無し先着30名
第T部:時代劇に始まる日本映画
*講師:宮崎 博(元東映専属俳優/元美空ひばり館専務)
第U部:坂本龍馬暗殺の謎と企み
*講師:杉さんぼく
※後半に質問時間を設けています。
※講演前に、時代劇短編映画の上映を予定中です。。
*主催:京都歴史研究会
2015/12/11 Fri 23:16 [No.216]
京都歴史研究会・代表
力士の錦旗捧持は…以前からの天皇行幸の際の慣例で、禁門の変(1864年)に斃れた久留米藩士・真木和泉による建策と言う。
西園寺公に従った華の峰は、激戦の地・越後から会津へと転戦。
会津城の合戦では錦旗を敵軍に奪われてなるものかと、自らの胴体に御旗を巻き付け敵陣から脱し
、翌日、西園寺公に御旗の無事を報告した逸話もある。
大任終えて京都相撲に復した華の峰は明治4年(1871)、大関となり(助頭取兼務)、同6年3月より頭取、25年には総理(理事長に相当)に昇格した。
政府高官とのパイプ役だった時期もあって、疎水工事や日清戦争等の御用に力士を充当し、京都相撲の地位向上に奔走した。
西郷に愛された華の峰は、西郷の角力相手をいつもつとめていたが
征韓論の論争に破れ、故山に帰る途中、華の峰を京都に訪れた西郷は、
「もうお前とも会えまい」
と名残を惜しんだと云う。
西郷が朝敵の汚名を除かれて、贈位の御沙汰があった時は、最も狂喜したのは華の峰だった。
彼は縁深い清水寺に西郷の建碑を計画し東奔西走したが、後援者であった公家が天皇と共に東京へ移るなどの逆境に、日に日に京都相撲も斜陽
。
明治32年7月17日祇園祭の日、
70歳。。
建立の実現前に亡くなった
「華峰院善誉勇道居士」
華の峰善吉の墓は、洛東東大谷の墓地4区。
右面「華ノ峰善吉ノ弟子一同」もとは、駒風弥三郎、駒嵐覚右衛門、釈迦嶽谷五郎、立縄甚八が上部に、小納山三五郎、千羽嶽金太郎、山嵐銕蔵、灘風直二郎、鱗達清吉が下部に刻。
駒風、駒嵐、釈迦嶽は華ノ峰の弟子、他、明治初年に亡くなった京都相撲力士たちを含む供養墓。
参考文献京都・滋賀の相撲−まつりと力士の墓−(竹森 章/著・発行)
2015/11/02 Mon 19:35 [No.187]
京都歴史研究会・代表
清水寺成就院の前に
月照・信海両上人にゆかりの碑が三基建っている。
その右端は華の峰善吉(元大関・京頭取)が首唱し、代議士:内貴甚三郎などを動かして建てられた…
「贈正三位西郷隆盛公記念碑」である。
正面、
相約投渕無後先豈図波上
再生縁回頭十有余年夢空
隔幽明哭墓前
月照和尚忌日賦 南州
背面、
建設者
衆議院議員内貴甚三郎、明治四十年廿四日建之 首唱者 故力士華峰 林善吉
賛成者
京都市会議員中安信三郎
幕末、京都力士は勤王派に協力、錦旗を捧持したり、力仕事などに従事していた。
華の峰は文政13年(1830)、
越中(富山県)の生まれ。
幼少時より怪力を発揮し、京都相撲・錦島(元駒風)の門人となって駒嵐と名乗った。
そして華頂宮に見出され、その一字を戴き『華の峰』と改名、宮津藩主・松平(本庄)候からも十人扶持の待遇を受けた。
当時の京都相撲は江戸・大坂と並ぶ大相撲ながら、江戸や大坂と比べて規模の小さい組織であったが、
華の峰はかなりの実力者で大坂の興行にも出場し、
文久元年(1861)から慶応3年(1867)まで7場所連続で中頭筆頭に在位。
幕内力士を江戸から招聘していた大坂相撲の十両に相当する中頭は最高の地位で、華の峰はその最上位を維持していた
。
京都にいた頃の、相撲好きな西郷隆盛に気に入られ、その相撲の稽古相手にもなり、
西郷と近衛家(老女村岡)の間の連絡役としても活動した。
そして戊辰戦争では弟子数名を引き連れて、山陰道鎮撫総督・会津口征討参謀:西園寺公望(19歳)に従軍、錦の御旗奉持の大任を負った。
岩倉具視率いる東山鎮撫使でも京都力士が錦旗を奉持した。
2015/11/02 Mon 19:33 [No.186]