あんびしゃん(氷河期の賢者
一方日本不利で進む沖縄戦は、兵士だけでなく住民さえも追い詰めた。『投降すればアメリカ兵に八つ裂きにされる』という誤報が流れたりし、集団自決を迫られる事例も多かったのである。
富子は、小さなガマの近くにやってきた。富子は服を引っ張られているのを感じ、振り向くと同じくらいの年の男の子がいた。
「遊ぼ」
男の子はそう言うと走り出した。鬼ごっこを誘っているらしい。
「鬼ごっこか。よーし!」
富子は走り出した。まるで直裕とかくれんぼをしているかと思うほどにこの瞬間は楽しかった。
「直裕! 来なさい! ……あら、遊んでくれたの?」
母親らしき人が駆け寄り、男の子の頭をなでた。
「直裕? 富子のニイニイも直裕だよ」
兄と同じ名前ということに気がつき、富子は聞く。母親は頷いた。
「そうかい。私たちはねえ、今からとってもいいところに行くんだよ? アンタも行くか?」
「え、どこどこ?」
「……天国」
母親は遠くを見て話を続ける。その目に生気はない。
「大丈夫。手りゅう弾あるからすぐ楽になる。来るか?」
富子は頷きかけた。ここ二週間、大した食べ物も食べることができず、ずっと一人ぼっちで歩いてきて、精神的にも限界が近づいていたからだ。
しかし富子は首を振った。兄の遺体の前での決意を思い出したからだ。父と姉と兄の分まで自分が生きる。そう決意したことを。
「行かない。富子死なない!」
母親は残念そうな表情をし、再び直裕を抱きかかえた。
「じゃあ、もしあなたが生きてたら、私たちのこと、覚えていてちょうだいね。お願いね……」
母親は直裕を抱きかかえ、小さなガマに入って行った。そして富子がその場を去ってから一分後、ガマは爆発した――
富子はあの母親が最期に見せた表情を思い出す度に胸が苦しくなった。
富子の孤独な旅が続く間、沖縄戦は終盤に差し掛かっていた。沖縄の住民に残された選択肢は、投降か自決かというくらいまでに追い込まれていた。
富子は、ある小さなガマにたどり着いた。というのも、外からでもわかるほどに油味噌のにおいがしたからなのだが。外はサトウキビ畑が広がっていて、見つかりにくいガマではあった。
「あった! 油味噌だ!」
富子は油味噌をほじくり、思いっきり舐める。
――飛び上がって喜ぶ。
「おいしい! ……あ」
が、視線に気づき隠れる。
「こっちに来なさい」
太い、老人の声。座って富子を見つめている。
「誰か入ってきたのですか?」
今度は老婆だ。
富子はためらったが、老人があんまりしつこく言うものだから、仕方なく老人が座っているところにいった。――老人の両手と両足はなかった。
「ご……ごめんなさい!」
富子は老婆に向けて頭を下げた。が、老婆の目は富子を捉えない。
「あら、女の子ね」
「目が見えないの……?」
「そうなのよ。おじいさんは戦争で両手と両足を無くしてねえ。二人でここに住んでるのさ。棚の上に食べ物があるから、食べなさい」
老婆は立って、ぐらつきながらも棚に物を取りに行った。富子は老婆を制止し、自分で取りに行った。
「おいしい!」
富子は豆を頬張った。逃亡生活を始めて以来の美味しさで、富子は驚いた。そして泣いた。兄、父、姉のこと。全て話した。老人と老婆は涙を浮かべながら聞いた。
「ひどいねえ。こんな小さい時には、もっといいものを見たいのに……」
「ずっと。ここにいていいんだよ」
老人は優しく富子に語りかける。
2011/08/16 Tue 19:06 [No.566]