あんびしゃん(氷河期の賢者
「父ちゃん……ネエネエ……」
その場で泣き崩れる富子を、直裕は抱きかかえた。直裕とてまだ十歳である。泣きたい気持ちは溢れているし、現に泣いている。けれど自分までもがここで泣き崩れ、この場を進まなければ、二人ともここで死ぬ。父親は子どもを守るという責任を果たして死んだ。だから自分も兄としての責任を果たさなければいけないという責任感だけを頼りに直裕は走る。
「富子、大丈夫だから、大丈夫だから。今は逃げなきゃ。おとうが残してくれた命を大事にしなきゃ」
二人は力いっぱい走り、なんとか戦火から逃れ、静かな海岸にやってきた。
「うえーん、父ちゃん、ネエネエ……」
岩にこしかけ、富子は泣いた。思いっきり泣いた。走ってきた間、兄に迷惑をかけまいと思いこらえていた涙を全て使って。
「泣くな。富子、泣くな……もしかしたら……もしかしたらおとうたちも生きてるかもしれん。今日はゆっくり寝て、南に行こう。きっと会えるよ」
「本当に?」
「本当さ。だからな、富子。泣きたくなったら、笑え」
直裕はとびきりの笑顔を見せた。富子は直裕がどれほど頑張ってその笑顔を作っているかを想像しただけで涙が出そうになったが、兄の努力を無駄にすることはしたくないという意思が勝り、笑った。
「ありがとう、ニイニイ」
富子はその場に寝転んだ。直裕は鞄に入れていた小さな布団を富子にかけ、自分は何もなしで寝転んだ。
「ニイニイ、掛け布団いらないの?」
「いいさ。富子が寝れればいいのさ」
「ニイニイ、お休み」
「おやすみ、とみ……」
直裕が声をかけようとした時にはもう、富子は静かに寝息を立てていた。
「お父さん!お父さん!」
炎に包まれる家から間一髪逃げ出した姉二人。しかしその命があるのは父の犠牲のおかげで、父が炎に包まれるのを二人は目にしてしまった。否、初子は見ていない。ヨシ子が初子の目を覆い、見せなかった。父親が炎に包まれていく姿など、見せたくはなかったのだ。
「初子、行くよ!」
何とか難を逃れ、森に逃げた二人は、小さなガマに身を潜めた。
「お父さんが。お父さんが……」
泣きすする初子をヨシ子は必死に慰める。
「お父さんが残した命、大切にしよう。南へ行こう。南へ行って、富子と直裕に遭わないと。二人を安心させないと。だから今日はゆっくり寝よう」
「ありがとう、ヨシ子ネエネエ」
こうして松川家は二つに引き離されてしまった。昨日まで当たり前にあった平和が突如奪われる。これが戦争。
翌朝、富子は爆音で目が覚めた。目を開けると、あたりいっぱいに煙が充満していた。富子でも分かる。近くで爆撃があったということは。
「ニイニイ、起きて。ここは危ないかも……」
直裕の首元から激しく流血している。直裕は目を開けたままじっとしている。その目は虚ろで、何も捉えていない。
「ニイニイ……?」
富子は直裕の体を揺さぶるが、その虚ろな目が他の何かを捉えようと動くことも、まぶたが瞬きをするために閉じようとすることもなかった。富子は不意に直裕のおでこを触った。
「冷たい……」
生きている心地が感じられないほどの冷たさ。富子は母親を思い出した。
「母ちゃんと一緒だ……冷たい。死んだ人は冷たくなるって父ちゃんが言ってた……」
母が死んだ時も、富子は不意におでこを触っていた。その時と同じ感触を、この時富子は覚えた。
「ニイニイ……死んじゃった」
富子は死んだ人をどうすればいいのかわからなかった。
「ニイニイ……富子はどうしたらいいの?」
兄が答えることはない。ふと、富子は昨晩の兄の言葉を思い出した。
「父ちゃんに助けてもらった命……でもニイニイは死んじゃった……ネエネエも死んじゃったかもしれない。じゃあ、富子がみんなの分まで生きるね! ごめん、ニイニイ。富子、行かなくちゃ!」
姉らが死んでしまったと勘違いしてしまったことは、富子をさらに奮い立たせていた。
兄を置いていくのに抵抗もあったが、絶対に自分が生き残って、また兄の骨を拾いに来る。そう決意した富子は、一人で歩きだした。波は激しく打ち寄せる。
一人きりで南へと進む旅。幾度となく爆撃に遭うが、何とか難を逃れ続けて、また南へ。
富子は当初、人の多い方へと逃げていた。しかしある日、直裕のことを思い出していた際に、兄とのかくれんぼを思い出した。
「富子はみんなと同じところに逃げるから駄目なんだよ。いいか、かくれんぼのコツはよ、人のいないとこ、いないとこに逃げることなんだ」
直裕の言葉を思い出してからの富子は、昼間は隠れ、夜に食べ物を探すという生活をし始めた。
2011/08/16 Tue 19:05 [No.565]