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京都歴史研究会・代表
清水寺成就院の前に
月照・信海両上人にゆかりの碑が三基建っている。
その右端は華の峰善吉(元大関・京頭取)が首唱し、代議士:内貴甚三郎などを動かして建てられた…
「贈正三位西郷隆盛公記念碑」である。
正面、
相約投渕無後先豈図波上
再生縁回頭十有余年夢空
隔幽明哭墓前
月照和尚忌日賦 南州
背面、
建設者
衆議院議員内貴甚三郎、明治四十年廿四日建之 首唱者 故力士華峰 林善吉
賛成者
京都市会議員中安信三郎
幕末、京都力士は勤王派に協力、錦旗を捧持したり、力仕事などに従事していた。
華の峰は文政13年(1830)、
越中(富山県)の生まれ。
幼少時より怪力を発揮し、京都相撲・錦島(元駒風)の門人となって駒嵐と名乗った。
そして華頂宮に見出され、その一字を戴き『華の峰』と改名、宮津藩主・松平(本庄)候からも十人扶持の待遇を受けた。
当時の京都相撲は江戸・大坂と並ぶ大相撲ながら、江戸や大坂と比べて規模の小さい組織であったが、
華の峰はかなりの実力者で大坂の興行にも出場し、
文久元年(1861)から慶応3年(1867)まで7場所連続で中頭筆頭に在位。
幕内力士を江戸から招聘していた大坂相撲の十両に相当する中頭は最高の地位で、華の峰はその最上位を維持していた
。
京都にいた頃の、相撲好きな西郷隆盛に気に入られ、その相撲の稽古相手にもなり、
西郷と近衛家(老女村岡)の間の連絡役としても活動した。
そして戊辰戦争では弟子数名を引き連れて、山陰道鎮撫総督・会津口征討参謀:西園寺公望(19歳)に従軍、錦の御旗奉持の大任を負った。
岩倉具視率いる東山鎮撫使でも京都力士が錦旗を奉持した。
2015/11/02 Mon 19:33 [No.186]
京都歴史研究会・代表
力士の錦旗捧持は…以前からの天皇行幸の際の慣例で、禁門の変(1864年)に斃れた久留米藩士・真木和泉による建策と言う。
西園寺公に従った華の峰は、激戦の地・越後から会津へと転戦。
会津城の合戦では錦旗を敵軍に奪われてなるものかと、自らの胴体に御旗を巻き付け敵陣から脱し
、翌日、西園寺公に御旗の無事を報告した逸話もある。
大任終えて京都相撲に復した華の峰は明治4年(1871)、大関となり(助頭取兼務)、同6年3月より頭取、25年には総理(理事長に相当)に昇格した。
政府高官とのパイプ役だった時期もあって、疎水工事や日清戦争等の御用に力士を充当し、京都相撲の地位向上に奔走した。
西郷に愛された華の峰は、西郷の角力相手をいつもつとめていたが
征韓論の論争に破れ、故山に帰る途中、華の峰を京都に訪れた西郷は、
「もうお前とも会えまい」
と名残を惜しんだと云う。
西郷が朝敵の汚名を除かれて、贈位の御沙汰があった時は、最も狂喜したのは華の峰だった。
彼は縁深い清水寺に西郷の建碑を計画し東奔西走したが、後援者であった公家が天皇と共に東京へ移るなどの逆境に、日に日に京都相撲も斜陽
。
明治32年7月17日祇園祭の日、
70歳。。
建立の実現前に亡くなった
「華峰院善誉勇道居士」
華の峰善吉の墓は、洛東東大谷の墓地4区。
右面「華ノ峰善吉ノ弟子一同」もとは、駒風弥三郎、駒嵐覚右衛門、釈迦嶽谷五郎、立縄甚八が上部に、小納山三五郎、千羽嶽金太郎、山嵐銕蔵、灘風直二郎、鱗達清吉が下部に刻。
駒風、駒嵐、釈迦嶽は華ノ峰の弟子、他、明治初年に亡くなった京都相撲力士たちを含む供養墓。
参考文献京都・滋賀の相撲−まつりと力士の墓−(竹森 章/著・発行)
2015/11/02 Mon 19:35 [No.187]