京都歴史研究会・代表
力士の錦旗捧持は…以前からの天皇行幸の際の慣例で、禁門の変(1864年)に斃れた久留米藩士・真木和泉による建策と言う。
西園寺公に従った華の峰は、激戦の地・越後から会津へと転戦。
会津城の合戦では錦旗を敵軍に奪われてなるものかと、自らの胴体に御旗を巻き付け敵陣から脱し
、翌日、西園寺公に御旗の無事を報告した逸話もある。
大任終えて京都相撲に復した華の峰は明治4年(1871)、大関となり(助頭取兼務)、同6年3月より頭取、25年には総理(理事長に相当)に昇格した。
政府高官とのパイプ役だった時期もあって、疎水工事や日清戦争等の御用に力士を充当し、京都相撲の地位向上に奔走した。
西郷に愛された華の峰は、西郷の角力相手をいつもつとめていたが
征韓論の論争に破れ、故山に帰る途中、華の峰を京都に訪れた西郷は、
「もうお前とも会えまい」
と名残を惜しんだと云う。
西郷が朝敵の汚名を除かれて、贈位の御沙汰があった時は、最も狂喜したのは華の峰だった。
彼は縁深い清水寺に西郷の建碑を計画し東奔西走したが、後援者であった公家が天皇と共に東京へ移るなどの逆境に、日に日に京都相撲も斜陽
。
明治32年7月17日祇園祭の日、
70歳。。
建立の実現前に亡くなった
「華峰院善誉勇道居士」
華の峰善吉の墓は、洛東東大谷の墓地4区。
右面「華ノ峰善吉ノ弟子一同」もとは、駒風弥三郎、駒嵐覚右衛門、釈迦嶽谷五郎、立縄甚八が上部に、小納山三五郎、千羽嶽金太郎、山嵐銕蔵、灘風直二郎、鱗達清吉が下部に刻。
駒風、駒嵐、釈迦嶽は華ノ峰の弟子、他、明治初年に亡くなった京都相撲力士たちを含む供養墓。
参考文献京都・滋賀の相撲−まつりと力士の墓−(竹森 章/著・発行)
2015/11/02 Mon 19:35 [No.187]