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  1. [61] 阿保親王廟と長州藩についてですが、近代天皇制陵墓として、毛利家が阿保親王を長州毛利家の祖に作り上げて行くのは、以外と知られていませんので、少し触れます。

    長州藩は、大江家、毛利家につながる系図に阿保親王を認識してか、寛政諸家系図伝(1789)には、

    「…阿保親王-本主宿禰-音人(大江)-(略)-広元-(毛利)-季光…
    と記しました。
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    長州藩始祖譚
    杉さんぼく 2015/07/26 15:15

[ 編集 ][ 返信 ]長州藩始祖譚

杉さんぼく

阿保親王廟と長州藩についてですが、近代天皇制陵墓として、毛利家が阿保親王を長州毛利家の祖に作り上げて行くのは、以外と知られていませんので、少し触れます。

長州藩は、大江家、毛利家につながる系図に阿保親王を認識してか、寛政諸家系図伝(1789)には、

「…阿保親王-本主宿禰-音人(大江)-(略)-広元-(毛利)-季光…
と記しました。

これを受けて文政年間、長州藩の村田清風が阿保親王墓所探索に当たります。
その最終的対象には、奈良(不退寺・超昇寺・平城天皇陵・在原寺)、大坂(大塚山)、芦屋(親王寺)が候補にあげられました。

この他には、伏見深草阿保親王塚、東福寺塔頭願成寺があります。
「阿保親王御廟詮議」(山口文書館・村田清風全集所載)には、無住で危機にあった中の東福寺塔頭願成寺から長州藩に当てた願書があり、それは「長州藩主が参勤交代時に参詣して欲しい」という、婉曲な経済援助願書でした。

この中で願成寺側はかく言います。

「旧跡之内ニ親王御旧跡と申処、凡そ三拾間四方ニ而、三方は堀を構へ、一方は谷川ニ而、四方土堤を築キ有之、其内ニ親王御廟所と申伝へ、御石塔御座候…」
これは寺側の売り込み文句でしょうか?

いずれにもせよ、明治8年(1875)来の阿保親王墓は、現在の宮内省諸陵寮では、芦屋の親王塚(親王寺)を墓所として所管しています。

かくして、この親王墓所創出により、西宮上陸泊時の参勤交代には墓所参詣、代参をさせたりと、維新前の士気高揚に阿保親王墓が政治的に重要視されたのは否めません。

「…標識も何もなく、鳥羽街道団地の南方に小さく玉垣に囲まれてこの小円墳の塚はある…古来、平城天皇の皇子・阿保親王の墳墓であると伝えられ、この付近を安保(阿保)町と称していた時期もある。阿保親王は藤原薬子の変に座して大宰府左遷、後に許され帰京、願いが成就したとして、『願成就寺』を建立した。その寺の在ったといわれる場所が深草願成町である。」(深草を語る-深草記念会編・2013)

2015/07/26 Sun 15:15 [No.61]