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  1. [222] 三好家は阿波出身で、三好長慶のときに台頭した一族である。長慶は父元長を謀殺した主君細川晴元や13代将軍足利義輝を京都より追放り
    、し、近畿から四国にかけて十数カ国を勢力下に収めた人物である。

    当時の「天下」という言葉には日本全国≠ニいう意味もあるが、より多用されていたのは京都及びその周辺≠ニいう意味であり、現在の首都圏という言葉の感覚に近い。当時多くの戦国大名が  ・・・・ >> 続き
    信長の前の天下人 三好長慶
    藤原改新 2015/12/23 12:27

[ 編集 ][ 返信 ]信長の前の天下人 三好長慶

藤原改新

三好家は阿波出身で、三好長慶のときに台頭した一族である。長慶は父元長を謀殺した主君細川晴元や13代将軍足利義輝を京都より追放り
、し、近畿から四国にかけて十数カ国を勢力下に収めた人物である。

当時の「天下」という言葉には日本全国≠ニいう意味もあるが、より多用されていたのは京都及びその周辺≠ニいう意味であり、現在の首都圏という言葉の感覚に近い。当時多くの戦国大名が出兵の際に大義名分として足利一族を擁立して戦うのが常識だった。その中で足利一族を擁立することなく「天下」を支配した長慶は、まさしく天下人であった。

『信長公記』によると、松永久秀の弟 内藤宗勝の与力 赤沢加賀守が、関東で鷹を求め丹波へ帰る際、信長に一羽献上しようとしたとあるので、長慶は信長に興味を持ち、接触しようとしていたようである。しかし、長慶は信長の12歳年上で信長がまだ尾張時代の永禄7年に世を去っているので、信長を具体的にどう思っていたかまでは、解らない。逆に信長は長慶に対して高い関心を示していた。

永禄2年信長を含め諸大名が相次いで上洛している。2月に信長が、4月には斎藤義龍や長尾景虎が上洛した。この時期、諸大名の上洛が続いたのは前年の長慶と将軍義輝の争いに原因がある。その年の2月、「弘治」の元号が「永禄」に改まった。室町時代の慣習では、改元は天皇と将軍の合意によってなされる。ところが、時の正親町天皇は長慶によって5年間も京都を追放されていた義輝とではなく、長慶との間に改元を決めた。その為、将軍は改元に従わず、旧年号を使い続けるという異常事態になっていたのがこの時期である。
一方で、長慶は新たな武家の代表者として天皇に承認されることになった。半年後、ようやく義輝は改元に従い、長慶との講和が成立すると京都に戻っている。即ち、室町幕府が天皇に否定されるという緊急事態になったので、信長たちは上洛して自分の目で状況を確かめたかったのであろう。
義龍や景虎は義輝より様々な栄典を授与され、幕府の復活と判断したようだ。しかし、さしたる栄典も得ず、直ぐに京都を去った信長は逆に幕府の滅亡を予期したのではないだろうか。

その後、長慶は様々な要求を義輝に突きつけていく。正親町天皇の勅許も得て、南朝の遺臣であった松永久秀の家臣 楠正虎の名誉を回復させることで、北朝の守護を担ってきた室町幕府の正当性を失墜させた。又、足利尊氏が鎌倉倒幕の功により後醍醐天皇より拝領した桐御紋を長慶も拝領することで、三好家の家格を足利将軍並みに向上させようとした。さらに義輝の娘を人質に取り、上下関係を明らかにした。この様に、幕府を克服しようとする長慶をよく見ていた人物こそ信長である。
後に信長は足利義昭より、室町幕府の名門、一色家の名跡を継いだ斎藤義龍や、同じく上杉家の名跡を継いだ長尾景虎の様に、高い家格の家を継ぐようにと、名門斯波家の家督相続を許そうとした。しかし、信長はそれを断り、長慶の様に桐御紋のみを拝領した。又、義昭最初の挙兵を抑えた際には、義昭の息子の義尋を人質にすることで許している。長慶が義輝の娘を人質にすることで、上下関係を明らかにさせたことを彷彿させる行為である。
そして、再度挙兵した義昭を京都より追放した信長が最初したことは、正親町天皇に上申して決定した、「天正」への改元である。次いで、長慶や久秀がその名誉を回復させた楠正虎を自らの右筆に登用する。この様に信長が幕府を克服しようとした政策の原形は、長慶の政策であったのだ。

『信長公記』巻一の冒頭は、長慶による義輝殺害の場面から始まる。長慶は既に死去していたが秘匿されていたので、著者の太田牛一、つまり当時の織田家では長慶が義輝を殺害したと思っていた。この事件の原因について、『信長公記』は「天下執権」たる長慶に対し、義輝が「御謀反」したと記している。信長に対して暗君の義昭が背いたので追放したという主張の原形が垣間見える。

三好家と足利家の緊張が高まる中で、長慶は永禄7年に死去した。

2015/12/23 Wed 12:27 [No.222]