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奥津喜多世ママ
妻は
病床に臥し…で有名な梅田雲濱はんは、なんや、若林強齊先生の孫弟子になるんどすな。
雲濱はんは若州(若狭)のお人で、強齊先生のお墓近くにある北条定齊という先生も若州人、墓石裏面に、宝暦12年2月19日生、文化12年9月6日歿(死ぬ意味、没でない)とありますえ。
強齊先生は延寶7年7月8日の生、享保17年正月20日、50有余4歿…と、門人西依周行はんの寛政8年2月の墓碑面は語ります。
父親正印の側に埋めよの遺言で、父長軒と眠ってはるんどすな。
寛永15年12月29日生、寶永7年正月9日終(なぜか、歿でも没でもない
あらら〜
)
2015/08/04 Tue 14:23 [No.82]
杉さんぼく
京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立斎(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?
上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者でした。
その名声を聞いたのが小浜藩士、梅田源次郎雲濱で、京都遊学中に立斎の弟子となることを申し出て、その非凡さを見抜かれて学友となし親交を深めました。
その後、梅田雲濱は大津の北保町荒神堂近くの坂本町にある米穀商、中村五兵衛の別宅を借りて私塾、湖南塾を開塾、その時に立斎は娘信(しん)を雲濱に嫁がせました。
信は、書画にも優れた若い才女で、尊王攘夷運動に奔走する雲濱を支えてよく尽くし、貧困生活にもめげずにいましたが、辛労が祟ってか29歳の若さで病死しました。
そして、立斎は嘉永7年(1854)1月8日、61歳で没しています。
「梅田雲濱先生湖南塾址」が、長等小学校の校門前に梅田雲濱顕彰碑(ここは二度目の塾で、最初の開塾地は、現在の浜大津5丁目辺りとかです)としてありますが、師の上原立斎と娘のとの交情話には、激動の幕末期を足早に駆け抜けた若き学徒のドラマとして、尾花川(日本婦道記-山本周五郎)のような小説にはならないものでしょうか?
2015/08/04 Tue 14:39 [No.83]
奥津希多世ママ
雲濱先生をよほど気にいれられたんですね、上原立斉先生は。
生活よりもその学識や人柄が、先生をして二人娘のうちの長女「信」さんを娶わす事になるんですよねえ。
それが現代までの、五代目玄孫まで続くんですからすごい歴史です。
2015/08/04 Tue 17:55 [No.84]
京都歴史研究会代表
希多代になったり、
喜多代になったり、
貴多代?
2015/08/28 Fri 07:58 [No.105]
奥津希多世ママ
打ち間違えたんです、ごめんね
2015/08/29 Sat 18:37 [No.107]